<古代>
1.
公的救助の始まり
公的救済の始まりとして、718年の戸令があります。でも『収養』するのは国家による救済というよりは、多くを近親者として,無い場合は坊里でという方法でした。
2.
皇室による救済
政策的な意味が強く、天皇の恩恵を示すためであり、苦しんでいる人々のためではありませんでした。
@
賑給制度
律令制国家の大事や慶事(立太子、即位、祥瑞出現、天皇皇族の罹病等)に実施され、米、塩、布帛、衣料を貧窮民に支給しています。また天災や疫病流行のときも実施されたり、稲などの貸し出しも行われました。
A
備荒制度
天地異変などの自然食を蓄えるための制度として702年に設立されましたが、人々にとっては大きな負担にもなりました。
3.
仏教による慈善
@ 聖徳太子の慈善救済
593年、四天王寺の四箇院が建立されました。これは皇室の権力の強化を含めた仏教的慈善の救済活動という意味をもっていました。
A
行基による実践
河川に架橋、開墾して水田としたり、行路病者や貧民の為に布施屋を設けたのですが、朝廷からは弾圧されました。
B 光明皇后の仏教慈善
730年に施薬院と秘田院を置いたり、貧民に対して施浴や癩患者の救済をしました。
<中世>
1.
公的救済は範囲が狭く私的意味合い
源頼朝による凶作時の窮民の救済(1189年)や、鎌倉幕府による賑給、徳政令もあるのですが、多くは領主大名の支配下のみであり民生安定のためでした。
@
北条泰時・時頼の私的慈善
天災での大飢饉や物価暴騰での困窮に対し、飢民を救済しています。
A
上杉謙信・武田信玄等戦国大名の慈善
凶作に税を軽減したり治水事業を行っています。
2.
仏教による慈善
鎌倉期にが仏教が普及し多くの宗派が広まりました。慈悲の教えは明恵・重源・叡尊・忍性の慈善活動を生み、彼らは広範囲の救済をしています。
3.
キリシタンの慈善活動が始まる
1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルがキリスト教の伝道を開始しました。布教と共に始められた慈善事業は、キリスト教徒のみならず一般の人々も救済の対象となり慈善行為をしてもらう対象ともなりました。
@
フランシスコ・ザビエルの慈善活動
養老、孤児、難民などを救済。
A
ルイス・アルメーダの慈善活動
孤児院、療病院を開設。
B
慈善組と慈善箱
信者と一般の人々による慈善も行われました。
4.
人々の自衛的扶助
この時代には荘園の制度に変わって惣村による自治が行われるようになりました。寄合を開き連携を強めたのですが、逆に『ウチ・ソト』の壁を作り、対象外の部落や非人への差別を生みました。
<近世>
1.
村落共同体による相互扶助
人々の暮らしは貧しく、口減らしの間引きが行われ、江戸期の人口は停滞しました。個人ではなく『イエ・ムラ』の関係で生活が営まれ、労力・貨幣・財物を共同で融通し合う相互扶助によって自衛しました。でもこの横の関係も掟に背けば村八分になりました。
@
ゆい・もやい
主に農村での『ゆい』、漁村での『もやい』という共同労働組織が発展し、公平な労力提供と分配の生活保障機能となりました。
A
講
家の経済的な相互扶助を目的とした団体で、村のみならず都市でも盛んでした。
2.
幕府による救済政策
家康以来儒教的な『仁政』を幕藩体制の倫理としていましたが、天災飢饉の続発と慢性的な財政難を抱え、生活の倹約や治安、財政再建を目指した救済政策を行っています。
@
五人組制度
助け合いと連帯責任の制度ですが、上から政策的に行い住民の相互扶助を強要しました。1643年制定。
A
八代将軍吉宗の「享保の改革」
1722年、目安箱の投書から小石川療養所を開設し、貧困な病人の救済を行うようになりました。これは日本の病院制度の始まりであり、行政が設立した最初の病院です。
B
老中松平定信の「寛政の改革」
農村の復旧を目指し帰農政策と、江戸下層民対策として町会所の設立と浮浪者収容施設である石川島人足寄場を設立しました。
C
老中水野忠邦の「天保の改革」
難民の御救小屋を設け救済しました。また、帰農のための人返し令を定めましたが幕藩体制末期のため効果は薄かったようです。
3.
藩の名君による藩政改革と救済
赤字財政の諸藩の中でも、積極的な政治改革と福祉政策を行った名君がいました。
@
備前岡山藩主池田光政
農業改良、天災飢饉の藩民の救済。
A
加賀藩主前田綱紀
高齢者社会事業として先駆的な養老の制、
非人小屋を設立しての救貧事業。
B
米沢藩主上杉治憲
凶作に備え社倉を充実、殖産、農村改革。
4.
思想家・学者による慈善救済
儒者や思想家がさまざまな救済論を述べましたが、特に陽明学者の大塩平八郎は天保の飢饉の際に窮民救済をし、武力にも訴えて鎮圧されました。また二宮尊徳は農業改善を説き、これは各地で実行されました。
<近・現代>
1.
恤給規則にみる私的救助依存の政策
明治7年政府としての政策で「恤給規則」を制定しましたが、公的扶助より私的救済を優先させ、しかも家族制度に依存していた制度でした。手続きの煩雑さと中央集権を強調していて近代的な公的扶助制度とは言い難いものでした。
2.
都市下層社会の救済問題とセツルメント
明治時代、都市では「貧民窟」と呼ばれる下層社会ができ、社会問題となっていましたが、政府の積極的福祉政策はありませんでし。この頃は民間の社会福祉慈善事業のセツルメント(貧しい人が多く住む区域に定住し、住民と親しく触れ合ってその生活の向上に努める社会運動。また、そのための宿泊所・授産所・託児所などの設備)活動が中心で、これらを実践した多くは海外の実践を学んだプロテスタントの信者でした。
@
片山潜
明治30年セツルメント事業として「キングスレー館」を開きキリスト教社会事業を始めました。後には労働運動に力を注いでいます。
A
石井十次
明治38年児童擁護施設のモデルともなった「岡山孤児院」を開設しました。組織的な経営をし、その理論『小舎制』『里親委託』『実業教育』の実践の中で、多くの児童を救いました。
B
留岡幸助
明治32年に非行少年の感化事業として家庭学校を東京に、大正3年に北海道に設立しました。大自然に学ぶ労作教育の立場を取り、少年教護に貢献しました。
3.
天皇家・皇族による感化救済
明治期以後の社会福祉にとって皇室の下賜金は経済的にも大きかったのですが、国民への精神的教化と施設の社会的承認という意味からも大きな意義がありました。
4.
社会事業と労働問題の分岐が始まる
それまで貧困と労働問題は同一次元でしたが、大正時代にデモクラシーの風潮と共に、労働運動と社会事業は分岐していきました。
5.
方面委員制度による公私並立福祉
6.
救護法の実施へのソーシャルアクション
世界恐慌後の貧窮者の救済は恤給規則では対応ができず、新たな救護法を制定しました。制定と実施に向けて方面委員、マスメディア等社会が行動を起こし、これが成功しました。しかしまだ公私混同型福祉であり、財源の面からも救助対象も不充分でした。
7.
植民地支配下の社会事業
朝鮮、満州、台湾、その他日本の植民地における社会事業は、積極的に取り組んでいたように見えます。でもこれらは、異民族を考えず、日本への同化政策、皇室化政策でした。軍事的統治の手段として偏った社会事業が行われたという特殊性を持っています。
8.
戦時体制下は人的資源としての厚生事業
戦時下は国民を人的資源として捉えていたので、昭和12年の母子保護法をはじめ、社会事業は有資格社会構成員に力を入れた厚生事業となりまし。精神主義に堕した点で、大正デモクラシーを基調としてきた社会事業とは異質のものへ転換したという特徴を持っています。
9.
戦後は福祉三法から福祉六法へ制度確立
@
公的扶助としての福祉六法
戦後改革期にはGHQの社会救済四原則(無差別平等、国家責任、公私分離、必要かつ十分)までには至らなかったとはいえ、福祉三法が制定されました。生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法の中には生存権や新しい社会福祉理念が織り込まれました。その後、皆保険、皆年金体制が確立して精神薄弱者福祉法、老人福祉法、母子福祉法が制定され社会福祉体制が確立しました。
B
社会福祉協議会発足
昭和26年社会福祉事業法制定及び社会福祉協議会の発足は民間の社会福祉団体の再生になりました。
10.
施設福祉から地域福祉へノーマライゼーションの世界へ
昭和40年以降、それまでの施設福祉から地域福祉へと変化していきます。経済の高度成長は福祉の成長を停滞させ、家庭と労働者を脅かします。そしてこれは住民運動を呼び起こし、社会福祉政策に目を向けさせ、地方自治の本旨を再確認する事にもなりました。こうして生活保護中心体系から新しい日本型の福祉社会へ進む事になります。家族形態の変化した現代、障害者も高齢者も、地域の中で公的援助と自助、相互扶助のバランスを保つこと、そしてノーマライゼーションの理念による福祉社会が望まれています。